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第5代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・ジェイムズ・ガスコイン=セシル(、1893年8月27日 - 1972年2月23日)は、イギリスの貴族・政治家。ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)。 1903年から1947年まで「クランボーン子爵」の儀礼称号を称した。 == 経歴 == 第4代ソールズベリー侯爵ジェイムズ・ガスコイン=セシルと、その妻である第5代の娘シシリーの間に長男として生まれる。ヴィクトリア朝期に首相を務めた第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは父方の祖父にあたる。 イートン・カレッジを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチで学ぶが、第一次世界大戦にグレナディアガーズ中尉として従軍したため学位は取得しなかった。 1929年イギリス総選挙で南ドーセット州選挙区から初当選し、1941年まで庶民院議員。1935年から1938年まで外務省政務次官()を、1940年に主計長官()を、1940年から1942年まで自治領大臣(; ドミニオン大臣)をそれぞれ務めた。1941年に父親の爵位の従属称号「セシル男爵」として貴族院に招集され()、貴族院議員となる。その後は1942年に植民地大臣()、1942年から1943年まで王璽尚書を歴任。1942年から1945年までは貴族院院内総務()を兼ね、1943年から1945年は自治領大臣に再任された。1947年に父親から爵位を相続。 1950年代は、サー・ウィンストン・チャーチル、サー・アンソニー・イーデン、ハロルド・マクミランの下で1951年から1952年まで王璽尚書を、1951年から1957年まで貴族院院内総務を、1952年に英連邦大臣(; コモンウェルス大臣)を、1952年から1957年までを務めた。 1957年1月、イーデンが後任を女王エリザベス2世に推薦せずに首相を辞職した時、候補はラブ・バトラーとマクミランの二人がいた。女王はどちらに大命を降すべきかの助言をチャーチルやエドワード・ヒース、ソールズベリーらに求めた。この時圧倒的な支持でマクミランが組閣を命じられたことはメディアに驚きをもって迎えられたが、後にバトラーは庶民院の新人議員に大きな反バトラー派が存在していたことを回顧録で認めた。 ソールズベリーは、強硬な帝国主義者として知られていた。1952年に英連邦大臣であった彼は、イギリス人女性と結婚したセレツェ・カーマのベチュアナランド(現ボツワナ)への帰国を妨げようと試みた。1960年代も、南アフリカ共和国や南ローデシア(現ジンバブエ)を統治する白人政府の忠実な弁護者であった。貴族院のリベラルな改革にも強く反対していたが、一方で「総選挙でマニフェストとして掲げられた法案について貴族院は第2・第3読会で反対できない」とするソールズベリー・ドクトリンを作ってもいる。 1961年にソールズベリーは保守党内の右派グループであるの初代代表となり、死去するまで務めた。 またソールズベリーは1951年から1971年までリヴァプール大学の総長でもあった。1970年にはアパルトヘイト支持をはじめとする反動的主張を行う彼の解任を求め、学生が上院議事堂を占拠する事件が起きている。 1940年に枢密顧問官に列せられ、1946年にガーター勲章を受勲。1960年から1972年まはガーター騎士団の長官()に任じられていた。1957年には王立協会のフェローにも選出されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロバート・ガスコイン=セシル (第5代ソールズベリー侯爵)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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